飛行日誌
クロスカントリー編‐Lake Tahoeへ
上村晋也


2002年5月25日土曜日快晴

 
Beech Craft Sundowner 3724Zの両翼には満タンの57ガロンが積載されてパイロットのプリフライトを完了していた。午後2時40分、ランナップエリアでの最終エンジンチェックを 終えた24Zは北北東を目差し、右45度デパーチャ−の離陸許可を待つ。満タン57ガロンとパッセンジャー2名を搭載すると、最大離陸重量2450ポンドまであと150ポンドの猶予を残すのみである。なんら不安に思うこともないが、離陸には幾分通常以上の滑走距離が必要となるはずである。パッセンジャー2名にはそれがどのようなことか知るよしもない。
 今日の目的地はLake-Tahoe。純度97%にも達する純粋な水を湛える、カリフォルニア最大の湖である。この湖を越えると、ネバダ州に入るわけだ。離陸5分後、すでに高度は3000フィートに達しようとしているが、目的地方角のシェラネヴァダ山脈は遥かにかすんで、その姿をまだ視界に現していない。途中の道しるべには、3つのVORを確保してある。リヴァモア上空から一つ目のVOR方位に合わせ機首を右旋回させる。しかも上昇速度82ノットは維持したままだ。速度の維持は上昇ピッチ角で細かにコントロールする。第一目標高度9500フィート(3160m)。フライトプランでは、この高度までの所要時間を離陸後14分と計算していた。つまり毎分678フィートの上昇率である。ピッチ角度を上げすぎれば速度は落ち、足らなければ速度が上がる。最大効率の上昇スピード(ベストレート/海抜75ノット)より前方視界の確保とエンジン加熱を防ぐ為に多少余裕を持たせた巡行上昇82ノットを維持し、離陸10分後ながら高度はまだ5000フィート。9500フィートまで毎分500フィートのレートを維持出来たとしても、後9分以上はかかる計算になる。毎分500しか上がらない理由は、何か? 考えられるのは実質外気温が標準より高く空気密度が標準より低いということを意味している。スタンダード気温設定、海抜0にて15℃、1000フィート上昇ごとに2度下がる設定のことである。プランしていた上昇率678フィートは標準気温時の設定なので、気温がそれより高く空気密度が低くなると、飛行機はたちどころにその性能を低下することになるのである。これらの基礎知識のページを捲りながら、5分の遅れが不安材料にあらずという結論を自分自身に提示していくのである。

 VOR電波目印設定は2つ目を目差していた。上昇速度をベストレートに変更しつつ離陸19分後丁度に、高度9500フィートに到達。ヨークを押し戻しバーティカルスピード表示が0を差すのを確認してから、離陸直後に合わせた上昇トリムを解除し、ヨークを押し戻そうとする空圧を減衰させ水平飛行を保つと次第に対気速度(IAS)は上昇してくる。30分後、巡航高度9500フィート維持、対気速度は95ノットを表示している。かすかにシェラネヴァダ山脈の頂きに残雪が見えてくる。これでVOR電波塔以外に飛行目標ができたことになる。よしあの山と山の間に向けて飛ぼう。これさえ捕らえられれば、飛行方角の維持が一層簡単になるのである。VOR表示はバックパップに使えばよいだけだ。パイロテージと言って、VFRパイロットの基本航法である。景色を堪能しながら、パッセンジャーに飛行ルートや計器類を説明する余裕は十分に出ている。山脈を目前にして、2度目の上昇に入る。目標高度は11500フィート(3800M)、富士山を凌ぐ高さである。海抜0m標準日の一気圧は1013ヘクトパスカルだが、この高さに達するとこれが977ヘクトパスカルまで下がるが、対空速度(TAS)に変化は無く、地上距離を計測する対地速度(GS)も無風との予報なので、対空速度と同じ108ノットに成っているはずである。出力が同じで空気抵抗が減衰すると、物体の空中移動速度は上がるのである。ジャンボジェットが39,000フィートもの高高度を巡航するのは、空気抵抗を極限まで取り去り対空速度を得て、ジェット気流と言う追い風に乗って対地速度を稼ぐのである。外気温は実測値0℃。離陸直後に流れていた額の汗はとっくに乾ききり、エンジン室からの暖気を機内に取り込むレバーを引く。ほんの1時間前までの初夏の風が、一挙に冬の匂いがコクピットに充満する。眼下には、真っ白い残雪の切れ目から真っ黒い岩肌が鋭い角度で突き出ているのが見える。山肌からは、ほんの2000フィートしか離れていないのである。山頂を吹きすさぶ冬山の風は【よく来たな小僧っ】とでも凄んでいるかのごとく小さな機体を上下に鋭く揺さぶり始めた。『山の上では上昇下降気流が絶え間ないんで揺れるのは当たり前なんですよ、いやあ綺麗な眺めですなあ、絶景ですなあ』とはしゃいで見せる。少しでもパッセンジャーの気を和らげるのもパイロットの役目なのだ。しかし、もしここでエンジンが停止した場合、対処のしようがないのが現実。ガストによる上下の揺れを細かく修正しながら、高度とヘッディング維持に努める。あと少しで山を越え、Lake Tahoeの湖面に抜ける。エンジン停止はそれからにして欲しい、と切に願う気持ちになる。最後の峠を越え湖面に出ると、さっきまでの揺れがウソのように穏やかになり、空港へ向けて流れるような飛行姿勢になった。湖面は深い紺色に輝いている。逆光を浴びた真ん前の湖面には残雪に跳ね返った白い光が反射し、対岸にはSquirrel Valleyスキー場が見渡せる。まさに絶景であった。右旋回を大きく取りながら、空港の位置を確認する。現在地から空港までの距離を地図上で割り出し、ラジオにタワーの周波数を入れ、進入方法と着陸許可を受け取る。穏やかな初老の声が、滑走路18へのストレート進入、暫くして着陸の許可を貰ったその瞬間、どっと安堵感が押し寄せ、ガストに無理していた笑顔が本当の笑顔になっていくのを感じていた。

 Lake Tahoe空港のフィールドエレベーション、すなわち滑走路の高度は海抜7500フィートもあるのだ。片道飛行にガソリンは半減し、総重量もかなり減ったはずなのに無風の滑走路18にタッチダウンした時の対空及び対地速度は通常より5ノット早い70ノットにも及ぶ。これは空気が薄くなり風の抵抗が減ったためなのである。人体がこの気薄感を息苦しいと感じることはない。しかし機体は空気抵抗の減少を顕著に受け止めるのである。これに驚いて着陸直前にゴーアラウンドをするパイロットも少なくないのだ。静かな着地を決め、タクシーウェイからトランジェントパーキングへゆっくりと機体を進めると赤い旗を両手に振るマーシャルが駐機位置を旗で示してくれる。成田に到着したジャンボ機長の気分だ。

 『どっから来た?』タホ空港ターミナルのバーに入ると人懐っこいバーテンダーが軽快に問い掛ける。「サンノゼだよ。視界良好、いいフライトだった」そう答えながらジンジャー
エールのストローをすすり上げた。一仕事終えた後のビールは格別なんだろうが、パイロットに対する飲酒飛行罰則はドライバーへのそれとは比較にならないほど厳しいものなのである。また、一杯のビールでも、高高度=低気圧中を飛行するパイロットに与える影響は計り知れないと聞く。滑走路を見下ろすと、まるで管制塔のようなバーの窓の外には10人乗りのビジネスジェットが数機泊まっている。ほとんどが湖畔の別荘に週末遊びに来る、富豪たちの個人所有機だとバーテンダーが説明する。後部座席は剥ぎ取り、ソファや家具、シャワー室まで備え付けた数百万ドルレベルの豪華ジェットである。しかもパイロットはお抱え。この国の、金持ちの上限は青空なのだろうか?ソファには、やはりシートベルトはあるんだろうか?

 一時間ほどの休憩後、タホ空港を飛び立ち上昇しながら左岸に沿って機首を向けると湖畔がまるで山肌ごと大きなしゃもじで丸くえぐり取られたような湾が見えてくる。しかも湖面はそこだけエメラルド色に輝いているのだった。水自体は本流湖水と繋がっているのに明らかな色彩の相違が不気味なほどであった。エメラルド色の湖面上を周回しパッセンジャーの写真欲に応えるのだが、周囲は切り立った絶壁。吹き降ろす乱気流は両翼をいとも容易く揺さぶるのであった。直線飛行での揺れはさほど危険ではないが、旋回中の揺れはリフトを失い易い。なるべく旋回角度は小さくリフトを最大限まで確保したいところだが、パッセンジャー二人が幻想的なエメラルドグリーンに見とれている最中も私は目前の絶壁からの安全距離の確保に躍起となり、多少急角度の旋回も仕方なく、旋回の前方に紺碧の湖面が見えてくるとホッとしてもっとも安定した上昇速度82ノットにしがみ付くのであった。湖面対岸のトラッキータホ空港までは10分の距離。そこで燃料補給を予定していた。帰路は追風、対地速度の増加を算出したあと十分にして必要なだけの燃料を補給す
る。5500フィートの高高度空港からの離陸、その後12500フィートまでの上昇には余分な燃料は返って邪魔になるのである。


 残雪の合間から鋭い剣を突き上げる山肌を飛び越え、眼下の平野部かなたに帰路を見つけ出す。帰り道に目標となる大きな山はない。ただただ漠然と広がる白くかすんだ空間の彼方が帰り道なのだ。しかも夕刻の太陽はオレンジ色の無遠慮な光を容赦なく真正面から照りつけてくる。往路に活用したVOR電波塔が帰り道にも大いに役立つが、太陽の方角が帰り道ということも重要な方角確保のデータとなるのである。山脈さえ越えれば、あとは下降の一途。エンジン2400回転を抑えることなく一挙に進む山下り飛行である。対地速度は120ノット、220キロの高速飛行だ。オマワリさんのネズミ捕りレーダーに気を回す必要もない。大空での制限速度は無制限なのである。しかし太陽はそれより遥かに早い速度でどんどんと北西に飛び去っていく。高度4500、ホームベースまであと50マイルの頃、オレンジ色の太陽はすっかり跡形も無く立ち去り、眼下には各地の町明かりが黒い地面に黄色い目印を見せ始める。黄色い町明かりの形はまさに地図上の黄色表示と全く一致するのである。VOR電波塔からの方位電波はあくまでも確保しているが、形を地図上に見つけては現在地を認識していくのが有視界パイロットの航法である。左前方にサンノゼの一際大きな町明かりが煌煌と夜空を照らしている。手前の小高い山、ミッションピーク山頂の赤い点滅灯を左に流すと眼下はもう全面黄色の町明かり。【ああ、無事に帰ってきたな今日も】ふと気づくとパッセンジャーたちはすっかり深い眠りにあり付いていた。21時30分、リードヒルヴュー空港は他のプレジャーフライトたちのご帰還をとっくに済ませ、本日最後の一機、Beech Craft Sundownerの帰還を穏やかに出迎えてくれた。

 飛行時間180時間を越えた今、緊張感による不快な疲労感よりも達成感による充実した喜びが上回るようになってきた。ひとフライト毎に確実な経験の蓄積が感じられる。

カミシン
VFR PIC 143-88-4190